宇宙に描く
未来予想図
JAXA
人類は太古の時代から未知、未踏の場所に夢を抱いてきた。そしてその夢は、有人ロケットにより地球を飛び出し、宇宙空間に達した。JAXA宇宙飛行士の野口聡一さんは、アメリカのスペースシャトル、ロシアのソユーズと、文字通り「人類の夢を乗せて飛ぶ」有人飛行で2度搭乗。2回目の飛行ではISS(国際宇宙ステーション)で約半年間を過ごし「宇宙での生活」という夢も実現可能なものとして示してくれた。野口さんにとって「夢」とは、どのような存在なのだろうか。
「広い世界を見たい、だから宇宙を目指した」
――野口さんは大学卒業後に入社された石川島播磨重工業(現IHI)時代に、宇宙飛行士選抜試験の受験を決意しています。まずは、そこに至るまでの経緯を教えていただけますか。
もともと宇宙への興味は、子どもの頃に観た『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』などのアニメがきっかけだったと思います。そして高校生の頃、スペースシャトルの打ち上げをテレビで観たことで、宇宙飛行士を「職業」として意識するようになりました。
宇宙飛行士選抜試験の募集があったのは30歳を過ぎた頃。どの会社でも、責任ある業務を任され、社会人として脂が乗りはじめる時期ですよね。私も仕事にやりがいを感じていたので、IHIで働き続けたいという気持ちもありました。しかし、「もっと広い世界を見たい」という想いが強くなり、受験を決めました。ただ、それほど切迫感があったわけでもありません。私は会社に属したまま試験を受けて、落ちれば元の仕事に戻る気でしたので「行けるところまで行ってみよう」といった考えでした。
――宇宙飛行士の試験は様々な分野のエキスパートが受験されますが、野口さんは500人以上の受験者の中でたったひとり合格されます。その要因は何だったと思われますか?
私よりも宇宙の知識がある人、優秀な方はたくさんいらっしゃいました。しかし、あの時日本が求めていたのは、ミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)として、ロボットアームなどの操作や船外活動を行う人材。私には技術者としてのバックグラウンドがありましたので、タイミングが良かったのです。また、合格後に厳しい訓練を行う中で、それに耐えられる精神的、身体的なタフさも求められます。私の場合はボーイスカウトで培った経験が大きかったと思っています。宇宙飛行士には、地球上のどこに帰還しても生き延びられるようサバイバルの訓練があるのですが、思うようにならない時でも諦めず、チームをまとめあげ、何事も協力して行う必要がある。それはボーイスカウトのキャンプと似ているんですよ。
――合格後の訓練は、どのようなモチベーションを持って臨まれていましたか?
それぞれの訓練が、宇宙での活動とどう関連しているのか、ということを常に考えていました。訓練の中には、私の得意分野のものもあれば、急病になった人の治療など、専門外のものもあります。最低限必要な知識・技術を身に付ける訓練と、自分がトップを目指す訓練にメリハリを付けることも意識していました。
――そして2005年、ついに宇宙に飛び立つこととなります。打ち上げの際はどのような感覚でしたか?
エンジンに火が付いた瞬間、ロケットは鎖から放たれた竜のように、迷いなく、まっすぐ空に昇っていきます。「昇る」というより、空に向かって際限なく落ちていく感覚といったほうが近いかもしれません。これは訓練では絶対に体験できない感覚で、「今まさに、私の夢が叶ったのだ」という感慨と共に、今もありありと思い出すことができます。
――初めての宇宙飛行では、2週間、ISS(国際宇宙ステーション)に滞在し、3回の船外活動に従事。2009年にはISSで161日間の長期滞在をしています。どのような時間でしたか?
1度目はあっという間でした。任務を遂行できたことには満足感はありましたが、地球に帰るときは修学旅行の最終日のようで、名残惜しさがありました。
そして2009年の2度目の滞在では、長期滞在だったこともあり、地球をじっくり見ることができました。美しさとともに、危機的な変化についても、です。アマゾンの森林伐採、地球温暖化の影響と思われる南極、北極圏の巨大な流氷、ほかにも、メキシコ湾の原油流出、火山爆発、山火事、洪水など、地球の問題、人類の問題が、宇宙からは隠し様もなく見えてしまいます。
「夢は変わっていく。走りながら追えばいい」
――野口さんは、そういった地球の様子、ISSで行う業務の内容等を、Twitterで頻繁に発信されていましたね。
よく「宇宙の孤独感」などといわれますが、インターネットがあれば、宇宙でも世界中の人と繋がることができます。そうした発信・情報交換をしながら、未来に向けた夢のあるビジョンを描き出し、伝えていくことも宇宙飛行士としての務めだと思っています。
――宇宙開発、有人飛行の成果は、短期的には測れないことも多いですよね。
宇宙開発は人間の移動手段の選択肢を新たに作ることです。人類は、徒歩だけで移動していた時代から、船、鉄道、自動車、飛行機を発明し、ロケットもその過程にあります。ですが、船も飛行機も発明された当初は大きなことはできませんでした。ライト兄弟が有人動力飛行に初めて成功したとき、飛んだ時間はたったの12秒。しかし、その12秒をきっかけに人類の活動領域は大きく広がることになります。宇宙開発がもたらす可能性も、同様に考えられるのだと思います。
――私たち一人ひとりの未来が、宇宙開発と関わってくることになりますね。
宇宙が、誰でも行ける場所になると、そこに社会ができることになります。宇宙空間で暮らすこと、仕事をすること、子どもを育てることになれば、あらゆる人、職業が関係します。仕事にしろ観光旅行にしろ、「自分が宇宙に行くとしたら何をするのか」ということを多くの人に考えていただけるような機会を提供していきたいです。
――読者の中には目の前の仕事と「夢」の狭間で迷いを感じている方もいると思います。そういった方にアドバイスをいただけますか。
ひとつは、自分の5年後、10年後の未来予想図を描くこと。今すべき仕事の責任を果たしつつ、ちょっとがんばれば届く「目標」、そして大きな「夢」と、どのように折り合いをつけるかがテーマになると思います。
もうひとつは、「夢は変わって良い」ということ。私は、子どもの頃から宇宙飛行士になることだけを考えていたわけではありません。宇宙飛行士への憧れはありましたが、民間企業に入って、技術者として成長することに喜びを感じていましたし、先ほどお話したとおり、宇宙飛行士選抜試験も仕事を辞めずに受験しました。夢を追うといっても、その対象は変化していきます。走りながら、その時々に抱いた夢を追っていけばよいのではないでしょうか。
――それでは最後に、野口さんご自身の「夢」をお聞かせください。
大きな夢からいきましょう。「月に行くこと」です。月面で「地球見酒」を飲んでみたいですね(笑)。そして、月を暮らせる場所にしたい。その実現のための身近な目標は、後輩たちに私の経験を伝え、引っ張っていくことです。宇宙に夢を持つ人同士が繋がり、力を結集すれば、アジアから月に飛び立つことも可能になると思っています。
※Qualitas Vol.16より転載
JAXA
野口聡一
JAXA宇宙飛行士。1965年横浜市生まれ。東京大学大学院修士課程修了後、石川島播磨重工業(現IHI)入社。ジェットエンジンの設計開発、性能試験に携わる。1996年にNASDA(現JAXA)が募集する宇宙飛行士候補者として選抜。2005年、スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、ISS(国際宇宙ステーション)の組立てミッションに参加。2009年にはソユーズTMA-17宇宙船で二度目の宇宙飛行を行い、ISSに161日間滞在した。